「劣等感」という感情

きたみです。また今、やりきれない感情に襲われているので、テーマが重くなってしまいます。ご了承ください。

今回お伝えしたいのは、「劣等感」という多くの人間にとって悩ましく、また基本的な感情についてである。

 

劣等感はごく自然でありふれた感情

 

 

あなたは劣等感を抱いたことがありますか。おそらく「ない」と思った人はほとんどいないのではないでしょうか。それもそのはず。誰しも、人間には「他人より優れていたい」と思う気持ちが本能的に備わっている。これは、生物学的に生き残るためにも合理的な感情といえるであろう。弱肉強食の世界が人間にも当てはまるなら、生きていくためには他者より優れていなければ、と思うのはごく当然のことと言えるでしょう。

いやでも人間には本当に色々な人がいるから、中には「劣等感?なにそれ、おれそんなの一度も感じたことないよ」っていう人もきっといるんだろう。劣等感を持たないで生きられるなら、それだけでだいぶ生きやすいだろう。劣等感故に死にたくなったり、実際に自死してしまう人間もいるぐらい。それぐらい、多くの人はこの劣等感に苦しんでいる。ごくありふれた、人間の基本的な感情なのです。

私自身も、今、この劣等感にひどく悩んでいる。どうしたら克服できるものかと、日々考えている。

少々長くなりますが、私自身の話をすると

私は中学生になったころから、痛烈に「劣等感」に悩まされることになった。特に「能力面」において強い劣等感を抱いてきた。なぜなら、私が頑張ってもなかなかできないことを、周りの学生たちはなんなくこなせたりすることがあまりに多かったからです。人に比べて苦手なことが特段多い。そう感じたのです。とりわけその差が出たのが体育と人間関係構築です。このふたつにおいては、目も当てられないほど辛い経験をしたと思います。

周りの人間は特に水泳や体育の競技を習ったわけでもないのに私ができないことをすんなりできていた。一方で私は何回授業でやってもうまくいかず、次第に「運動音痴のきたみ」と認知されるようになり、馬鹿にされることもしばしばありました。

特に辛かったのは、運動会などでペアを組むことをいやがられたり、まじめにやってるのに「ふざけている」と思われて怒られてしまったこと。これはね、自分はがんばっているのに相手に結果的に迷惑がかかってしまうという面でも非常に辛かったね。クラスの人たちからも「できない子よね、みんなに迷惑ばかりかけてる」と陰口言われていて、私は当時から劣等感を抱いていたから、すごく胸に突き刺さった。忘れられない。

 

人間関係においても、このブログで以前お伝えしたと思うが、普通に友達を作ることができず、一人でお弁当を食べているような時期もあった。なんとか耐えていたが、やりきれないほどしんどく「早く学校終わらないかな」と毎日思っていた。そして、帰宅すると両親に学校のことについて愚痴ばっかり言って、相手はうんざりしていた。まったく明るい顔ができなくなっていました。

とうの昔なのに、今でも思い出すと本当に辛くなる。それぐらい大きな屈辱を、しかも中高生という非常に多感な時期に経験してしまったのでした。

 

その時の屈辱が、後の人生において、かなりの悪影響を及ぼしていると痛感しています。大学受験には受かり、その時一瞬だけ自信を持てたが、しばらくすると中高時代の嫌な記憶が頭を支配するようになり、その心の傷が原因で大事な友達のことを傷つけてしまうようなことにもなりました。そして、就活でもまったく自信がもてず、失敗してしまった。このように、劣等感という感情のために、すべての歯車が狂い、負のスパイラルに陥っていったのです。

 

そして、私は30になる今でも劣等感を克服できず、そのために日々苦しみながら生きています。そう、あの頃の傷から、まだ立ち直れていないのです。いくら昔のことでも、心に深く刻まれた負の感情は、簡単には癒えません。一時的に痛みを感じなくなっていても、似たような屈辱的な出来事があれば、また即座に痛み出します。出血してしまいます。

実際、あの経験の後社会に出てからも、職場で「あなたにはこの仕事難しいね」と低評価をされてしまったり、上司に罵倒されることに耐えきれず、職場で泣き出してしまうようなこともしばしばあります。まさに、これは「古い傷がふたたびえぐられている状態」です。

 

私は同じ思いをするのがあまりに怖くなったので、以後、過剰に失敗を恐れて生きるようになってしまいました。仕事でも正社員はあきらめましたし、非正規でも、安くても誰でもできるような仕事ばかり選んでやってきました。傷つきたくなかったのです。まだ古い傷が完治しないうちに新しい傷ができるのはごめんだ、そんな気持ちでした。

 

でもその結果、傷つきもしないけどあまり幸せじゃないいわゆる「ぬるま湯」状態になってしまったから、今はこの生き方をやめようとしていますが、それでも相変らず「失敗に対する異様な恐怖」は消えていません。それぐらい、私の劣等感は根深い感情なのです。もはや、私にとっては、この「劣等感」を克服することが人生のテーマといっても過言ではないでしょう。以前にお伝えした、メンタルの弱さも、根っこはここにあるのです。生きにくいよ、助けて。。。。

 

劣等感が強い=「実際に劣っている」とも限らない

 

劣等感というと、実際に平均レベルより劣っているような人のみが持つ感情のようにおもわれているかもしれませんが、そうとも限りません。どちらかというと、その人の気質に関係しているように思います。それプラス過去の体験ですね。

もともと繊細で、悲観的な性格の人ほど劣等感を抱きやすいといえるでしょう。こういう人は、辛い経験するといつまでもそれがわすれられず、ひきずってしまいやすいといえます。私なんかもそうですけど。。。

実際には周りから高く評価されていて、誰が見てもうらやましいような優秀な人でも、強い劣等感を抱いているということもあります。反対に、実際の評価がどう見ても低く、優秀とは言いがたくても、本人はまったく意に介さない、劣等感なんて少しも抱いていないという人もいます。この違いは能力そのものではなく、その人のもっている気質からくるといえます。悲観的な人は自分のだめな部分ばかり探して劣等感に陥ってしまっても、楽観的な人ならそこまで深く考えず、劣等感をもつこともあまりないのかもしれません。

だから、劣等感を抱くかどうかは、必ずしもその人の能力の大小によるものではないといえます。

 

物資ではほとんど解決できない感情

劣等感を克服するための方法としてよく「お金をたくさん稼ぐ」とか「成果を出す」ことがいいと言われています。しかし、これで劣等感から抜け出せるのは、一瞬だけにとどまるでしょう。人によっては一回の成功で見事に劣等感から抜け出せる場合もあるとは思います。でも、もっと根深く劣等感が染みついている人には、もうちょっと根本的な部分の改善が必要なんではないかと。物資で解決できるレベルじゃないほど深刻な人っていうのもたくさんいるんです。事実、私なんかも、成功体験があったからといって劣等感から抜け出せていません。心が安まるのは、ほんの一瞬だけでした。では、どうしたらこの悩ましい問題、解決できるのでしょうか。

 

もともと劣等感というのは「人と比べてしまう」ことから生ずる感情です。だから、一番は「人と比べること自体をやめること」なんでしょうね。これができるようになったら、もう劣等感には苦しまなくて済みます。でも、特に現代のような社会で生きていて、他人とまったく比べないというのは本当に不可能に近いです。常に競争って感じで、何につけても人と比べる機会というのが多いですよね。あと、SNSが発達して、赤の他人の生活がわかるようになってしまったのも大きいですよね。私も何回も人と比べるのをやめようと決意しようとしたが、結局できませんでした。

そう、自信がない人ほど、くらべてしまい、さらに落ち込むのです。自信が無いからこそ比べるのです。

苦手なことを克服するよりは、得意なことを伸ばした方が自信にはつながりやすい

現時点で一番最適だと思うのが、この方法になります。私はかつて、ずっと「苦手なことを克服して、平均レベルにはしないといけない」と考えてきました。体育に関しては社会に出て要求されることがなくなったので特に何もしませんでしたが、生きていく上で終りのない「人間関係」に関しての苦手をとかくなくさなきゃ、と必死で考えており、「普通にコミュニケーションが出来ている人」のようにふるまおうとしましたが、結局苦手を克服することはできませんでした。自信がつくどころか、ますます苦しくなって終りでした。苦手を克服するのって難しいんですよね。それに、どんなに頑張っても、もともと得意な人には勝てない。走りにおいては、カメは本気を出したウサギには決して勝てませんから。

 

そこで、私は「もう苦手なことは頑張りすぎない」ときめるようになりました。もともとえらく不器用で、いろんなことを同時に頑張れる性質ではありません。だから、これなら頑張れると思ったことにしぼって努力をすることにしました。その代わり、そのできることに関しては、誰にも負けないぐらいの気持ちでやっています。「継続は力なり」といいますし、それで自信をつけられるといいなあと思っています。結果がどうこうより、「継続できた」というところに自信を持てるようになると思います。

 

傷を克服できないなら、その後の人生において「生かす」しかない

 

過去に背負った深い傷を克服するのは、簡単なことではないんです。一回や二回うれしい経験があったぐらいでは、到底治らないでしょう。古傷となって、いつまでも心の奥深くに残っています。そして、また痛み出すかも、出血するかも知れません。私はそれを日々恐れて生きており、それゆえに生きづらさ、疲れやすさを感じております。いくら「贅沢な悩みだ」「甘えだ」と言われようが、それが本心なのです。

 

そして、私自身も誰かを傷つけてしまった。本当は助けてあげるべきだった人に、深い傷を与えてしまった。彼女だって、今も苦しんでいるはず。心の傷が癒えていないはず。もう同じ事を繰り返してはならない。変わらないと、いけない。

だから、私はもうこのようなどうしようもない感情をただ抱えて生きるのではなく、何らかの形で他人のために活かせないかな、と考えています。傷ついて生きることはとても苦しいけど、その代償として「他人の痛みがわかる心」が手に入るのだとしたら、傷つくことは悪いことばかりじゃないと思い、救いになります。物事にはたいていプラスとマイナスの面があるといいますが、こういうのもその一つといえますね。自分が辛い思いした代わりに、その傷を誰かを救うための力として生かすことができたら、とても尊い人生になりはしないだろうか。

 

今の世の中は特に仕事で成果を残した人間、多くお金を稼いだ人間ばかりが賞賛される傾向にあるが、そういう生き方ができなかった人間でも、別な方向で輝ける道があると、私は信じたい。