世の中の「普通」が憎い。

世の中の誰かが作った「普通の定義」が憎くてたまらない。いったい、いつからそれが普通と定義されるようになったのだ。そしてそこからこぼれおちた者たちはまるで世の中に存在してはいけないような雰囲気でもある。いや、考えすぎだろうか。否、そんなことはない。

この社会には、確実に「みんなと同じになって初めて一人前、それ以外は許されない、堕落者だ」という空気が流れている。

私はこの社会に適合できなかった。どんなに頑張っても、決して溶け込めない。「普通」のラインに遠く及ばない。だから、社会に対してものすごい劣等感を抱いている。悔しい、ただ悔しい、ちきしょう。普通に生きづらさを感じることもなく社会適合できている人間を見るだけでも腹が立ってしまう。お門違いなんだろうけど、「こんなやつらが今のこの世知辛い世の中を作っているんじゃないか?」などと、思わずにはいられない。

 

思えば新卒当時から、私は「外的な要素」では、何一つ成長を遂げられていないような気がする。実家を出るといいながらも今も実家に寄生しているし、収入も上がっておらず、結婚もできていない。周りが確実にグレードアップしているのが目に見えているから、なおのことつらい。何年同じ場所でもがきつづければ気が済むんだ?

これまで、頑張っても頑張っても報われないことの連続だった。一度は転職して収入アップを目指したものの、もうちょっと?のところで頓挫、やっと頑張れると思った仕事を見つけたら、それは真っ先に自動化される業種だった。副業を始めても、なかなかすんなりと収入が上がるわけでもなく、思わぬ罠にはまり、肝を抜かれた。とてもみじめな気持ちでいっぱいになった。

しいて言えば、今までやったことのない副業にチャレンジしたのは、成長といえるかもしれない。今のところ、周りにはやっている人間を見たことがあまりない。

それにしても、私が何かを手に入れたと思っても、世の中はそれよりずっと速いスピードで動いている。まったくついていけない。うまくいきそうと思ったところで、いつも何かしらの「障害」が入り、振出しに戻ってしまうのだ。

私は社会に見捨てられいるのだろうか。「お前は生きていてはいけない」ということなのだろうか。いや、努力不足かな?

なぜこんなことが続くのだろう。私は幸せになってはいけない定めなのだろうか。

他人と比べるまい、とは何度思っただろうか。しかし、どうしてもできない。それを達成するためには、一生食うに困らない生活資金を手に入れ、なおかつ俗世から完全に離れるぐらいしないと、無理だろう。生きているだけですでに比較だ。こっちが比較したくなくとも、否応なしに世間からは比較されてしまう。常に競争だ。もう身も心もすり減ってしまった。疲れた。もううんざりだ。今すぐこんな不毛なクソゲーは終わりにしたい。

 

最近話題の「反出生主義」について思うこと

近年、特に若者の間で「反出生主義」が叫ばれるようになっているという。私自身、主にネットでこの言葉を見ることが多い。ざっくりいうと、「生まれたことを後悔する」とか、「この世に命を生むのは大変残酷なことだから子を産むべきではない」といった、生物の生存、繁栄本能にまったく逆らった思想なのだ。

あまりにも極端な思想であるため、批判は多い。ほとんどの人間は、この思想に対し、批判的になるだろう。まあ、無理はないかもしれない。子孫を残して繁栄するのが、人間のみならず全生物の義務であるのだから。

 

しかし、他人に押し付けるのは別として、私自身はこの思想「よくわかる」というような気持ちである。

なぜなら、私もこれまでの人生ほとんどつらいものだったし、子供に自分と同じような思いをしてほしくない、という気持ちが非常に強いからだ。この私自身「生まれてきたことを後悔する」場面もたびたびあった。

それに、これからの世界情勢はますます厳しいものになっていくに違いないという確信もある。よほどの革命が起きない限り、生存が厳しくなるのは想像にたやすくない。そっち方面の専門家ではないし、私はかなりネガティブなところがあるから、あくまで想像でしかないけど、まあ、現状を見ている限りは、そのようにしか思えない。そういった世界で子供に生存を強いるのは、大変過酷なことなんじゃなかろうか。

 

日本は「日本に生まれただけでも大当たり、超勝ち組」といわれるほど世界的には恵まれた国なのだが、その日本ですら生きていくのは容易ではないと、少なくとも私は感じている。今は生活保護医療保険、年金制度など制度がかなり充実しているが、これから少子高齢化がどんどん進んでいくと、財政にも余裕がなくなるのは目に見えている。そうなるとこれらの制度も存続も怪しい。

実際、世の中には「無能な奴は消えるべきだ」といった優性思想が当たり前のようにはびこっているし、ネットを見ても弱者に対する心無い罵倒などを頻繁に目にする。冷え切った社会だなあ、と思うことも少なくない。また、テレビをつければ世界各地の深刻な、また残虐なニュースが流れている。

生きているだけでストレスを常に感じることを余儀なくされるような感じだ。もともと繊細な人なら、なおのこと生きづらいだろう。

 

今の若者が未来に対して希望を抱けず、このような過激な思想がはやるのは、以上のような時代背景があるからなんだろう。彼らを責められるものではない。

 

日本に生まれただけで勝ち組、というのも、言いたいことはわかるのだが・・・

 

これ、確かにいいたいことはわかるし、その通りだとも思う。アフリカなどの紛争地帯、隣の国家とも呼べないような独裁国家などに生まれていれば、人権や自由もなければ、そもそも生きること自体ままならない。生まれてすぐに命を落とす可能性が非常に高いといえる。日本みたいな先進国とよばれる国に生まれただけで、相当ラッキーだというのは確かに事実だ。ほぼ生存は保証され、人権も守られ、最低限の教育も受けられ、なおかつ保証も充実しているし、治安も限りなくいいのだから。

 

だがしかし、この日本みたいな国で、「生きるのでせいいっぱい」になっていたら・・・?

私はふと想像した。発展途上国で生きることで精いっぱいになっているのと、日本みたいな恵まれた国で同じ状態なのでは、精神的に大きな差があるのではないか、と。

 

熱く闘志を燃やせ

今、悔しい気持ちだ。自分の未熟さを指摘されたと感じている。と同時に、私への叱咤激励とも受け止めている。
素直に受け止めないといけない。だかしかし、自分にすごい苛立ちを覚えている。なぜ、他人に気に入ってもらえる作品をつくれないのか。私自身に魅力がないからか?

とにかくこの怒りを今、エネルギーに変換しなければならぬ。そして、遠くへ勢いよく飛んでいかなければいけない。
熱い熱で調理するほど料理が早くできるのと同じように、闘志が熱ければ熱いほど、短期間で遠くへ行くことができるはずだ。そう信じて。

誰の作品とわからずとも、自分の作品にたいして「この作品がいい」と言ってもらえるようになるまで。終わりなき闘いなのだ。日々戦場にいるつもりで生きろ。

「劣等感」という感情

きたみです。また今、やりきれない感情に襲われているので、テーマが重くなってしまいます。ご了承ください。

今回お伝えしたいのは、「劣等感」という多くの人間にとって悩ましく、また基本的な感情についてである。

 

劣等感はごく自然でありふれた感情

 

 

あなたは劣等感を抱いたことがありますか。おそらく「ない」と思った人はほとんどいないのではないでしょうか。それもそのはず。誰しも、人間には「他人より優れていたい」と思う気持ちが本能的に備わっている。これは、生物学的に生き残るためにも合理的な感情といえるであろう。弱肉強食の世界が人間にも当てはまるなら、生きていくためには他者より優れていなければ、と思うのはごく当然のことと言えるでしょう。

いやでも人間には本当に色々な人がいるから、中には「劣等感?なにそれ、おれそんなの一度も感じたことないよ」っていう人もきっといるんだろう。劣等感を持たないで生きられるなら、それだけでだいぶ生きやすいだろう。劣等感故に死にたくなったり、実際に自死してしまう人間もいるぐらい。それぐらい、多くの人はこの劣等感に苦しんでいる。ごくありふれた、人間の基本的な感情なのです。

私自身も、今、この劣等感にひどく悩んでいる。どうしたら克服できるものかと、日々考えている。

少々長くなりますが、私自身の話をすると

私は中学生になったころから、痛烈に「劣等感」に悩まされることになった。特に「能力面」において強い劣等感を抱いてきた。なぜなら、私が頑張ってもなかなかできないことを、周りの学生たちはなんなくこなせたりすることがあまりに多かったからです。人に比べて苦手なことが特段多い。そう感じたのです。とりわけその差が出たのが体育と人間関係構築です。このふたつにおいては、目も当てられないほど辛い経験をしたと思います。

周りの人間は特に水泳や体育の競技を習ったわけでもないのに私ができないことをすんなりできていた。一方で私は何回授業でやってもうまくいかず、次第に「運動音痴のきたみ」と認知されるようになり、馬鹿にされることもしばしばありました。

特に辛かったのは、運動会などでペアを組むことをいやがられたり、まじめにやってるのに「ふざけている」と思われて怒られてしまったこと。これはね、自分はがんばっているのに相手に結果的に迷惑がかかってしまうという面でも非常に辛かったね。クラスの人たちからも「できない子よね、みんなに迷惑ばかりかけてる」と陰口言われていて、私は当時から劣等感を抱いていたから、すごく胸に突き刺さった。忘れられない。

 

人間関係においても、このブログで以前お伝えしたと思うが、普通に友達を作ることができず、一人でお弁当を食べているような時期もあった。なんとか耐えていたが、やりきれないほどしんどく「早く学校終わらないかな」と毎日思っていた。そして、帰宅すると両親に学校のことについて愚痴ばっかり言って、相手はうんざりしていた。まったく明るい顔ができなくなっていました。

とうの昔なのに、今でも思い出すと本当に辛くなる。それぐらい大きな屈辱を、しかも中高生という非常に多感な時期に経験してしまったのでした。

 

その時の屈辱が、後の人生において、かなりの悪影響を及ぼしていると痛感しています。大学受験には受かり、その時一瞬だけ自信を持てたが、しばらくすると中高時代の嫌な記憶が頭を支配するようになり、その心の傷が原因で大事な友達のことを傷つけてしまうようなことにもなりました。そして、就活でもまったく自信がもてず、失敗してしまった。このように、劣等感という感情のために、すべての歯車が狂い、負のスパイラルに陥っていったのです。

 

そして、私は30になる今でも劣等感を克服できず、そのために日々苦しみながら生きています。そう、あの頃の傷から、まだ立ち直れていないのです。いくら昔のことでも、心に深く刻まれた負の感情は、簡単には癒えません。一時的に痛みを感じなくなっていても、似たような屈辱的な出来事があれば、また即座に痛み出します。出血してしまいます。

実際、あの経験の後社会に出てからも、職場で「あなたにはこの仕事難しいね」と低評価をされてしまったり、上司に罵倒されることに耐えきれず、職場で泣き出してしまうようなこともしばしばあります。まさに、これは「古い傷がふたたびえぐられている状態」です。

 

私は同じ思いをするのがあまりに怖くなったので、以後、過剰に失敗を恐れて生きるようになってしまいました。仕事でも正社員はあきらめましたし、非正規でも、安くても誰でもできるような仕事ばかり選んでやってきました。傷つきたくなかったのです。まだ古い傷が完治しないうちに新しい傷ができるのはごめんだ、そんな気持ちでした。

 

でもその結果、傷つきもしないけどあまり幸せじゃないいわゆる「ぬるま湯」状態になってしまったから、今はこの生き方をやめようとしていますが、それでも相変らず「失敗に対する異様な恐怖」は消えていません。それぐらい、私の劣等感は根深い感情なのです。もはや、私にとっては、この「劣等感」を克服することが人生のテーマといっても過言ではないでしょう。以前にお伝えした、メンタルの弱さも、根っこはここにあるのです。生きにくいよ、助けて。。。。

 

劣等感が強い=「実際に劣っている」とも限らない

 

劣等感というと、実際に平均レベルより劣っているような人のみが持つ感情のようにおもわれているかもしれませんが、そうとも限りません。どちらかというと、その人の気質に関係しているように思います。それプラス過去の体験ですね。

もともと繊細で、悲観的な性格の人ほど劣等感を抱きやすいといえるでしょう。こういう人は、辛い経験するといつまでもそれがわすれられず、ひきずってしまいやすいといえます。私なんかもそうですけど。。。

実際には周りから高く評価されていて、誰が見てもうらやましいような優秀な人でも、強い劣等感を抱いているということもあります。反対に、実際の評価がどう見ても低く、優秀とは言いがたくても、本人はまったく意に介さない、劣等感なんて少しも抱いていないという人もいます。この違いは能力そのものではなく、その人のもっている気質からくるといえます。悲観的な人は自分のだめな部分ばかり探して劣等感に陥ってしまっても、楽観的な人ならそこまで深く考えず、劣等感をもつこともあまりないのかもしれません。

だから、劣等感を抱くかどうかは、必ずしもその人の能力の大小によるものではないといえます。

 

物資ではほとんど解決できない感情

劣等感を克服するための方法としてよく「お金をたくさん稼ぐ」とか「成果を出す」ことがいいと言われています。しかし、これで劣等感から抜け出せるのは、一瞬だけにとどまるでしょう。人によっては一回の成功で見事に劣等感から抜け出せる場合もあるとは思います。でも、もっと根深く劣等感が染みついている人には、もうちょっと根本的な部分の改善が必要なんではないかと。物資で解決できるレベルじゃないほど深刻な人っていうのもたくさんいるんです。事実、私なんかも、成功体験があったからといって劣等感から抜け出せていません。心が安まるのは、ほんの一瞬だけでした。では、どうしたらこの悩ましい問題、解決できるのでしょうか。

 

もともと劣等感というのは「人と比べてしまう」ことから生ずる感情です。だから、一番は「人と比べること自体をやめること」なんでしょうね。これができるようになったら、もう劣等感には苦しまなくて済みます。でも、特に現代のような社会で生きていて、他人とまったく比べないというのは本当に不可能に近いです。常に競争って感じで、何につけても人と比べる機会というのが多いですよね。あと、SNSが発達して、赤の他人の生活がわかるようになってしまったのも大きいですよね。私も何回も人と比べるのをやめようと決意しようとしたが、結局できませんでした。

そう、自信がない人ほど、くらべてしまい、さらに落ち込むのです。自信が無いからこそ比べるのです。

苦手なことを克服するよりは、得意なことを伸ばした方が自信にはつながりやすい

現時点で一番最適だと思うのが、この方法になります。私はかつて、ずっと「苦手なことを克服して、平均レベルにはしないといけない」と考えてきました。体育に関しては社会に出て要求されることがなくなったので特に何もしませんでしたが、生きていく上で終りのない「人間関係」に関しての苦手をとかくなくさなきゃ、と必死で考えており、「普通にコミュニケーションが出来ている人」のようにふるまおうとしましたが、結局苦手を克服することはできませんでした。自信がつくどころか、ますます苦しくなって終りでした。苦手を克服するのって難しいんですよね。それに、どんなに頑張っても、もともと得意な人には勝てない。走りにおいては、カメは本気を出したウサギには決して勝てませんから。

 

そこで、私は「もう苦手なことは頑張りすぎない」ときめるようになりました。もともとえらく不器用で、いろんなことを同時に頑張れる性質ではありません。だから、これなら頑張れると思ったことにしぼって努力をすることにしました。その代わり、そのできることに関しては、誰にも負けないぐらいの気持ちでやっています。「継続は力なり」といいますし、それで自信をつけられるといいなあと思っています。結果がどうこうより、「継続できた」というところに自信を持てるようになると思います。

 

傷を克服できないなら、その後の人生において「生かす」しかない

 

過去に背負った深い傷を克服するのは、簡単なことではないんです。一回や二回うれしい経験があったぐらいでは、到底治らないでしょう。古傷となって、いつまでも心の奥深くに残っています。そして、また痛み出すかも、出血するかも知れません。私はそれを日々恐れて生きており、それゆえに生きづらさ、疲れやすさを感じております。いくら「贅沢な悩みだ」「甘えだ」と言われようが、それが本心なのです。

 

そして、私自身も誰かを傷つけてしまった。本当は助けてあげるべきだった人に、深い傷を与えてしまった。彼女だって、今も苦しんでいるはず。心の傷が癒えていないはず。もう同じ事を繰り返してはならない。変わらないと、いけない。

だから、私はもうこのようなどうしようもない感情をただ抱えて生きるのではなく、何らかの形で他人のために活かせないかな、と考えています。傷ついて生きることはとても苦しいけど、その代償として「他人の痛みがわかる心」が手に入るのだとしたら、傷つくことは悪いことばかりじゃないと思い、救いになります。物事にはたいていプラスとマイナスの面があるといいますが、こういうのもその一つといえますね。自分が辛い思いした代わりに、その傷を誰かを救うための力として生かすことができたら、とても尊い人生になりはしないだろうか。

 

今の世の中は特に仕事で成果を残した人間、多くお金を稼いだ人間ばかりが賞賛される傾向にあるが、そういう生き方ができなかった人間でも、別な方向で輝ける道があると、私は信じたい。

 

 

 

”おえかき”の世界について

今回は、今まで書いてきた「生きづらさ」とか「人生設計」の話とは違う、私の世界についての話をしたいと思う。

私は絵を描くことが好きである。幼い頃からなんらかのイラストや漫画を描いてきたし、今でもひまさえあれば何かを描いている。今となっては、絵を描かない日が一日もない。

絵と言っても、絵の具などを使ったいわゆる「絵画」ではなく、自分は「イラスト専門」になっている。まあ、いわゆるニッポンの「サブカルチャー」の中心になっている、アニメや漫画のイラストね。ああいうやつを描いているよ。ひとくちに「絵」といってもいろいろなジャンルがあるからね。あと、イラストと美術は違うからって、学生のころ美術教師に怒られた。まあ、それはおいておくとして。

 

単純に絵を描くことが好きな人びとは、たくさんいる?

あなたは絵を描くことが好きだろうか。「嫌い」だという人はおそらく、普段自分から絵を描くことなんてしないだろう。生活していて「絵を描かないと生きていけない」なんていう場面は皆無であるからな。反対に、「好きだ」という人は幼い頃に自発的に絵を描いていたであろう。もしくは大人になっても絵を描き続けているだろうか。

私が思うに、純粋に「絵を描くことが好きだ」という人間は、かなりの割合で存在するんじゃないだろうか。根拠はないけど、割合的には10人に1人ぐらいはいるだろう。いや、もっと多いかな。その倍の、5人に1人ぐらいいるかもな。イメージ的には、なんらかの小規模なグループに一人ぐらいいるっていう感じだ。小規模なグループってなんやねん、っていう話だけど、たとえば小さな塾の講師の中に一人ぐらいとか、学級内の一つのグループに一人とか、そんな感じだ。決して少なくはない。私自身、絵が好きな人間にたくさん出会ってきた。

 

しかしながら、幼い頃絵を描くことが好きだった人の多くは、大人になるとぴたっと描くことをやめてしまうように思われる。たまに描くことはあっても、少なくとも毎日のように描いている人となると、ぐっと減るのではないだろうか。もちろん時間がなくなったり、大して絵を描くことが好きではなくなったり、ほかにもっと熱中できる趣味が見つかれば、絵をやめてしまうことはごく自然である。

 

しかしながら、中にはこの私のように「大人になっても絵を描き続けていて、しかも一生やめるつもりはない!」というやつもいる。こういう人の中には、単に趣味としてやめられない人もいれば、本気で職業にすることを考えている人間も多い。いずれにせよ、絵を毎日描かない人、やめてしまった人にくらべて、絵に対する強い思い入れみたいのがあるのはまちがいないんだろう。「絵に対する愛」がハンパないのだ。だから大人になっても続けられるんだろうけどね。

 

絵が上達しやすい人の特徴

絵を毎日のように描いている人の中には「上達したい!」という強い思いを持っている人が決して少なくない。というか、ほとんどの人たちはたぶんそう思っている。そういう強い目標がなくてただ絵を描くのが好きだから続けています、っていう人もいるかもしれないが、このグループではたぶん希少。というか、それぐらい強い思いがなければ、毎日絵を描く理由なんてないような気がしている。個人的にはね。

でも、毎日たくさん絵を描いていても、上達する人としない人、って分かれてしまうようです。どちらも上達願望が強くて、同じぐらい量を描いていても、です。絵はただ描いていても決して上達するもんじゃないんですよね。私自身、経験からそう確信しました。量は大事だけど、それだけじゃないんだ。

 

こういいますのも、はっきりいって、私自身「かなり上達が遅れた」ほうだったからです。

毎日絵を描き続けている人たちの平均レベルは、限りなく高い物になっています。そのレベルは年々上がり続け、これからもずっとあがっていくでしょう。本当に上手な方は、中学生や高校生ぐらいから、同年代に比べて圧倒的な差がついたり、プロ顔負けの画力を有していたりします。

何が違うのでしょうか。やっぱりこれが天賦の「才能」ってやつでしょうか??

 

独断も含みますが、おそらくそういう人たちの多くは「幼い頃に大好きな作品があった」とか「目標にしたい先生を設定していた」のではないかと思います。なおかつ「絵を描くことが他の誰よりも大好き」であるはずです。もう、絵を描かないと生きていけないレベルで大好きなんです。その愛の強さ、ちょっと並はずれている。こういう人間は、本当に上達が早いものです。

なぜこう言えるのか、というと、そういう人たちは「頑張ってうまくなりたい」という気持ちの前に、すでにたくさん描いているからです。大好きな作品があって、大好きなプロの先生がいて、その人の作品をごく「自然に」模写してたりする。休み時間とか空いている時間にそういうことやっている人、いますよね?それを続けているうちに、いつのまにか「うまくなっている」のです。本人達はたぶんこれを「努力」とは感じておらず「好きだからやってるだけ」と思っています。ごく自然にね。うまいプロの絵を毎日のように好きで模写していれば、そりゃうまくもなるだろう。その上「もっと上達したい」と思って本気で描くようになったら、すごいことになるのは当然かなと。

 

で、プロとして活躍している人の多くは、こういう人たちなんだろうな。と思っています。こういう人たちの有利な点は「プロになるために必死に描き続ける」ことを意識する前に、ある程度の下地がそなわっているところです。そこまでうまくなかった人たちが「プロになるために上達するぞ」と頑張っても、もうすでに大きな差をつけられてしまっています。だから、有利なのです。いわば、絵の「バケモノ」的存在ですね。ここまでくると、もう本当にバケモノですよ。

 

漫画家に関しても「漫画家を目指して漫画を描き始める」のではなく、「漫画を描くことがもともと好きだったから漫画家を目指す」ほうが明らかに有利であるのとおんなじですね。前者は後者に比べたら、漫画を描くことを好きではなかったはず。

 

絵に限らず、ある程度のレベルまでいくには何かしら天性の素質が必要と言われますが、私が思うにこの桁外れな「大好き」という気持ちの強さ、これが「天性の才能」のような気がしています。

で、正直に言ってしまうと、私にもここまでの愛はないんだろうと思っています。だから、上達が遅れたのだろうと。たくさん描いていたけどなぜかなかなか上達しなかった。なんでかな、才能がないのかな?とか空間把握能力が劣るためかな?とかずっと考えていましたが、最近、やっとその答えになりそうなものが見つかりました。

一番の原因はこの「愛情の強さ」です。私と、そういう集団には、大きな差があります。

私はおそらく上達に大きな影響を及ぼすであろう多感な時期の、中学生、高校生と絵をまともに描いていませんでした。中学生の頃、クラスにうまい子がいたのでマネして顔だけは描くようになりましたが、その後、いろいろ自信を喪失し、なんかやる気がでなくなっちゃったのかな。高校の時はほとんどまともに描いていなかった。描いててもラクガキ程度でした。一応、部活はイラスト部だったのに。。。うまい人はこの時期からしっかり完成した「漫画」や「一枚絵」を描いています。

あと、そこまで「大好き」っていう作品がなかったことと、つい最近になるまで「目標にしたい先生」を設定できなかったこと、これが本当に大きかったですね。そこに具体的な「理想の絵柄」みたいのがないまま描き続けていても、ゴールが定まりません。当たり前のことのようなのに、なぜか気がつけませんでした。

 

これに関しては、もともと通っていた漫画教室の先生からもはっきり指摘されていた。「上達するためには、一度自分の絵柄を捨てて、目標の先生とまったく同じ絵柄を描くようにしなさい」と。私はもともと自分の絵柄が好きで、それゆえに他の先生の絵柄を取り入れることをあまりしなかったんですね。あと、何かを見ながら絵を描くのはよくないことと思い込んでいたから、ろくに資料を使わずに無理に描こうとしていた。本当に遠回りしちゃった。

どんなうまい人でも、かならずなんらかの影響を受けた人物がいるはずだからね。また、その先生は「他の先生と同じ絵柄を描こうとしても、絶対に全く同じにならないから。それが個性なのだ」とも言っていました。私は自分の絵が誰かのマネだと言われることをかなり恐れていた節があります。でも、絶対無いんですよね。その人の微妙なタッチの差で、確実に違った物になっていきます。確かに、似ててもまったく同じ絵柄の先生なんて、ひとりもいませんよね。

 

絵が上達したい人へのアドバイス

「絵描き集団」のなかでは大してうまくもない私がえらそうにアドバイスなんていかがなものか、と思いますが、これだけはどうしても伝えておきたい、ということだけ、描いておきます。

上記でも述べましたが、絵の上達のためには「絵に対する愛」と「目標を明確に設定すること」、「とにかくたくさん、完成作品を描くこと」これが重要です。あえて「完成作品」としたのは、ラクガキだけをたくさん描いてもしっかり完成した作品が描けるようにはならないと思うからです。線を一本に、的確に描写する方法、線の強弱、色の塗り方など、完成作品を描き続けることで確実に自分なりの手法を見つけていくことができると思います。ラクガキだけではいざ完成作品を描こうとするとき、線をどう決めたらいいかなどあやふやになってしまいます。私自身もそうでしたが・・・

 

目標に関しては、なるべく早いうちに、あなたの理想とする絵柄に出会うことが大事です。今時は調べればいろんな絵師さんのイラストがすぐにでてきますから、じっくりあなたの好みの絵柄を探すことです。そして、それと同じ物が描けるように、ひたすら練習してみてください。

 

そして、それをできる限り、短い時間でもいいから「毎日」続けることです。継続は力なりといいますが、本当にその通りで、どんなに一時打ちこんでも、空白が空いてしまうとなかなか上達しづらいです。毎日ちょっとずつやることで、確実に前に進んでいきます。一気に上達することは無いと思った方がいいです。プロのような安定した絵柄を描くには、かなりの経験が必要と、私自身痛感しています。本当に地道な積み重ねです。

プロの方も「上達にはとにかくたくさん描き続けること」と誰もが言ってます。近道なんてないって事ですね。

 

それでは、今回は私の大切な世界である「絵」についてお伝えしました!上達したい方、絵が単純に好きな方、プロになりたい方、おたがいもっと絵を楽しみたいですね!私も、今以上にイラストを愛せるようになったらと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

仮面

私は 仮面をつけて 生きている

この世界では 誰も彼も おなじような仮面をしている

うまく身に付けられたものが 生き残れるからだ

私はたいそう この重たくて 顔にぴったりはまらない仮面を もてあましてきた

とても窮屈で 顔がみしみしと痛む

それでも 仮面をはずすことは 許されない

そんなことを何十年も続けているうちに

もてあましていたはずの仮面は 
いつしか自分の一部となり 

もはや外すことができなくなった

私たちはみな、揺れている

今はまだ 波に揺られながら

時には どこまでも 流されていきながら

それでもいつか 船は 目的地を見つけられるはず

今はまだ 暗い暗い夜の海のなか

全部手探りだけど

その航路を 照らしてくれる光に 出会えれば

いつかきっと たどり着けるから

だから 船は 自分でこぐんだよ

生きる意味

今回も又、毎度のように重い話になってしまうことをご了承いただきたい。

 

私は最近「いかに生きるべきか」「どう苦しみを乗り越えるか」など哲学的な内容の本に興味を示すことが多い。自分が今後どう生きていこうか、人生設計をしっかりしないといけないタイミングだから、どうしても心を動かされてしまうのだと思う。

その中で、「人間が苦しいのは、自分の意思でもないのにこの世に産み落とされながらも、生きていく上で責任を背負わされるからだ」という考えを目にしました。

確かにそうなんですね。生まれてくるのは、まったく自分の意思ではない。それに、自分の持っている能力も、国籍も、家庭も、性格も、すべて選ぶことは出来ない。一方的に与えられたものばかりなのだ。で、みな、まったく違う時点からスタートする。

それなのに、生きていくために同じ競争を強いられる。それぞれスタートが違う者同士が、巨大なフィールドの上で競争を余儀なくされる。貧しい家庭の者も、裕福な者も、能力に恵まれた者も、そうで無いものも、容姿がみにくい者も、整った者も。だから、どうしても「理不尽」なことだらけになってしまうのだ。努力の差にかかわらず、勝敗が決してしまうことも多々ある。

で、その競争で負けた者は、自分の努力が原因だと周りから批難されたり、酷いと「だめな人生、負け犬」と言われることだってある。悪事を働いたわけでもなく、必死に生きてきたのに負け犬呼ばわりなんかされたらたまらない。

 

人生は努力だけで決まるものではない。上記にあげた、自分では選べない要因というのもかなり関わってくることなのだ。もちろん、スタートがかなり過酷な地点でも、逆転できない訳ではないが、優れた条件を持った者よりも厳しい戦いになることは間違いないのだ。

自分で選んだものでもない条件を持って、人生を生き抜かなければならない。たとえそれがどんなに不利な条件であったとしても。戦わないと、いけないんだ。

そこにまず、人生の苦しさはあるのかもしれない。

人生は理不尽なことばかり

私自身も学生の頃なんかは「努力すればかならず報われる」と割と純粋に信じていた方だった。自分も運があったのか、模擬試験では難しいと思っていた受験も無事合格できたり、努力が報われると感じる場面が少なからずあったからなのだろう。

ところが、30まで生きてくると、もはやまったくそうは思えなくなってきたのだ。自分自信、努力しても報われない経験をしたり、周りの報われないパターンを多々見てきたからだろう。次第に「世の中って理不尽なことばかりやなぁ」という思いは強くなり、揺るがないものとなった。

で、理不尽なことはどうしても許せない、という気持ちになることも多い。そのため、やりきれなくなることだってある。また、「もうどうしようもないんだ」と無気力になってしまうことも。

でも、上記の考え方を知ったら、なぜだか少しほっとした。「そっか、誰しも人生は選んだものじゃないから、理不尽になるのは仕方ないんだね」という気持ちになったのだった。それでも、あまりに理不尽なことは、胸が痛くなるんだけどね。

 

「何者かにならないといけない」という呪い

現代の日本では、6,7割ほどが「生きにくい」と感じている、という調査結果があった。私は最初、この生きづらさは日本人の「自己肯定感の低さ」がメインの原因じゃないか、と思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。

いろいろな記事などを読んでいくと「社会構造の急速な変容」というものも大きな原因となっているようだ。

ひとつは、一昔前、バブル崩壊までの「高度成長期」では、とかく労働における人力が必要で、仕事もその分たくさんあった。だから、言ってしまえばそれほど優秀でない人物でも、働けばなんとか社会を回すことができたのだ。つまり、そういう人でも、それなりに居場所があったっていうこと。

ところがバブル崩壊後、今から20年ほど前だろうか。不況により産業は縮小していき、当時の首相はアメリカ型の「成果主義」を取り入れるようになり、この結果、優秀ではない人材は会社にいづらくなってしまった。また、成果追求のためのコスト削減、徹底した合理主義などをどの会社も採用するようになり、余裕がすっかりなくなってしまった。「よりいいサービスを、より低価格で、最小限の人員で実現する」ことばかりを重視するようになってしまったから、その分従業員に負担がいくようになったのだ。

 

さらに、もう我が国民は、物資的には十分満たされてしまい、人はよりいいものでないと求めないようになり、サービス、商品に対する要求が年々上昇してしまってきている。

いわば「作りさえすれば売れる」という時代ではなくなり、価格競争、他者との差別化、という競争が厳しくなってしまったわけですね。いくらモノが満たされたといっても、国民が消費をしなければ世の中は回らない。だから、よりいいモノやサービスは、常に作り続けなければならない。

そういう世知辛い世の中だからか、労働市場では「一人でも多くの人間が優秀な人材である」ことを強要しているようになっていると、私は感じざるを得ない。そんな情勢を象徴する言葉が「生産性」だ。この生産性を持って、その人物そのものの価値を判断する風潮が、最近きわめて強いように感じてならない。極端にいうと、生産性の低い人間は不要だ、生きていてはいけない、という風にも感じられるのだ。相模原の事件のように、生産性の有無を理由とした残忍な殺人事件まで起きているぐらいだ。この犯人も、世間のそういった風潮に追い詰められたいた一人なのではないだろうか。

 

世の中には「バリバリ働きたい!」という人間ばかりではない。むしろ「生きるだけのお金が稼げればいい」と考えている人間も少なからずいる。でも、今の世には「優秀になれ」という圧が強く、「一億総活躍社会」というぱっと見素晴しいフレーズにも、それは見て取れる。これは、私が思うに、「活躍したい人は活躍できる」社会ではなく、「活躍したくない人間も活躍しないといけない」という意味なのだと解釈している。

なぜなら、「キャリアアップ」だの「自分だけのスキルを身につけよう」などの言葉があらゆるところで見受けられるからだ。私自身もキャリアアドバイザーに言われているし、なんだか、それを余儀なくされている感が否めない。「もっと役にたつ人間にならないといけないんだよ」というメッセージかと。なんとなく働いていてはいけないのかと。

私自身には、実際「キャリア」と呼べるようなものがまったくない。正社員ですらなく、専門職をやっていたわけでもなく、教育や管理職の経験も無く、また国家資格のようなものもない。単純な事務作業が、割と正確にそれなりのスピードでこなせるだけだ。はっきりいって、転職市場ではかなり価値が低い方であると自負している。いわゆる「生産性」の低い部類だね。

 

そういう人は、もうこの世に居場所はないんじゃなかろうか。世論を聞いていると、いつになくそういう気持ちになり、私は虚無感を覚える。私自身は、大したスキルがなくてもそれなりの生活が出来る世の中を期待している。だって、人間には向き不向きがあるからね。でも、今の世の中は、そうじゃない。今後はさらに厳しくなるだろう。

 

私には今のところ、はっきりした「自分の居場所」が見つけられていない。何をやっても、しっくりこないのだ。特に仕事面で。また、最適と思える伴侶も見つかっておらず、守るべき物も特にない。自分の役割が、わからないのだ。

で、居場所が見つけられないと、「なんのために生きているんだろう」っていう気持ちになってくる。


「何者かにならないと、この世に居場所がなくなる」そんな気持ちであり、日々、心が休まらない。何者か、っていうのが特に「仕事におけるもの」だと感じてるから、なおさら辛い。これが趣味やボランティア方面でもいいのなら、ここまで息苦しくはないのに。

 

私は、それなりの名を残しているアーティストや、自分の仕事にやりがいを持っている人間に、激しい憧憬を抱いている。もちろん、彼らが「やりたいこと」で生活しているからというもの大きいが、それ以上に彼らが「この世での居場所があり、それにぴったり当てはまっている」という風に感じられて、そこがうらやましい点なのではないかと思っている。

幼い頃からある職業になることを夢見ていて、実際その職業についてもあますことなく素質を発揮し、仕事に満足している。特に成功した芸能人などはまさに「その仕事をやるために生まれてきた」といえるほど才能に恵まれたりしている。こういうのが、天才というやつなんだろうな、と思う。

自分は、そうなりたかったのに、なれていない。そこまで優れた何かも、どうも見つけられない。ただなんとなく、とりあえずできる仕事をやりながら、生きている。生きる意味は、今もわからない。

やりたいことはあるけど、うまくいくかわからず、自信が無い。もし失敗したら、もう後がないっていう状況にあるから、なかなか踏み出せない。

 

自己肯定感の低さは致命的に人生に悪影響を及ぼす

自分の生きづらさの原因は、端的に言うと「社会との不適合、ずれ」なのだと思う。決して不幸な環境に生まれ育った訳ではない。むしろ、恵まれた点が多いと思う。それなのに、なんだか生きづらい、と昔から感じていた。

ただ、たったひとつ「自分自身の性質」、これだけが原因。自分の持っている性格と能力が、現代社会のニーズとうまく合致していないのが理由なのだ。

 

でも、冒頭でも述べたとおり、自分に与えられたものは、もう変更できないのだ。それを生かして生きるしかない。たとえ、狭き門であっても、最大限力を発揮できる分野があるなら、それに人生をかけてもいいとすら、私は思っている。それがなんなのかが、まだわからないんだけどね。

 

私自身、周りから心配されたり、人間関係でつまずいたりで、自己肯定感がほとんどない。「条件付き」でないと、自分を認めてあげられないんだ。

自己肯定感の低い人間は、やはり、自分の存在意義をわからない。そういうのを、無理にでも見つけるしかないんだ。人様から認められる自分にならないといけないんだ。

私はやっぱり、誰かから必要とされたい。特に仕事方面で。

 

「仕事=生きる意味」になってしまうと、とてもしんどい。世の中はもう変わらないから、自分だけでも、変わりたい。