歯車

僕はより大きな歯車になりたい
いやなりたいじゃなくて、ならなきゃいけないということなのかもしれない
それが僕がこの地球上に存在することを許される、唯一の理由かもしれないから

でも僕はすでに回り続けてきて身がすり減ってきている
このままじゃ、大きくなるどころかどんどん小さくなっていき、いつまで身がもつかもわからない 消えてしまうかも知れない

でもどこかから声が聞こえるんだ
「君はもっと大きな、役立つ歯車になるんだよ」という声が
もしかしたらそれは、自分の声なのかもしれない

今日も僕は、そんな声に耳を傾けまいとして、ひたすら回り続けるのであった

人生詰みかけか-職人気質は生きづらい-

完全に主観でブログを書いている。


私は、今、今後の進路をどうしたらいいのかまるでわからない。半ば、自暴自棄になってしまっている。もともと人生が思いどおりになるとは少しも思ってなかった。だから、少しでも楽に生きられればいいと思っていたが、それもどうやら叶わなくなってきている。

これからの時代は、「必要とされる人材」を目指さなくては生きられないのだ。世の中の状況やアドバイザーなどの意見を吟味すると、それを確信した。ただだらだら生きていては、そのうち行き詰まってしまう。

このコロナ禍で求人が激減して、仕事を求めてさまよう人々が急増しているのを見ているが、彼らの多くは特殊なスキルがない人々らしい。そういうものがないと、もはや生きられないのかしら。

以前にもこんな趣旨のことは何回か書いたのだけど、にしても、当の本人が、まるで気が乗らない。少しでも「頑張ったらきっとよくなる」という気持ちが持てればいいのだが、それがまったく持てない。せいぜい頑張っても現状維持がやっとのことだ、と思ってしまっている。

幼い頃描いた人生など、到底実現できるように思えない。もともと自信が持てないので、なおさらネガティブとなる。

もはや、会社にしがみついても、どんな忠誠を尽くしても、切られるときは切られるのだ。実際にそういう経験をしたので、私は、会社に頼らなくても生きていける道を模索しようと考えるようになった。
それにはやはり、「スキル」を磨くことしかないのではないだろうか。

その一環としてクラウドソーシングで案件を受注することを始めた。仕事がもらえたときは嬉しかったが、だんだん本業と平行してつづけられるか、早くも不安が高まってきた。それなりの手間と時間をかけて、仕事に追われているわりに、収入はほんのわずかだからだ。そして、会社員として本業をやってたら、それに費やす時間はさらに限られる。
そんなに簡単なものじゃないな、と思うようになってしまったのだ。本当に、仕事や、生きていくことは、大変だ。少なくとも私にとっては。

「一生やっていけること」を本業にしたい。それが自分にとって何なのか、まるでわからない。本当は、絵だけに全てを注ぎ、それだけで生きていくのが本望ではある。だけど、失敗したら目も当てられない状況となる。金銭的にも困るし、周りの人間から非難をあびることは想像に容易い。

それに私は、自分の絵にそこまでの魅力を感じていない。昔から、これといって「絵で人を感動させた」というエピソードも皆無。自分でそう思うなら、他人がみてもたぶんだめだろう。本業にすることは、見切りをつけたほうが賢明というものだろう。

もちろん、絵を仕事の一部としてやっていくことは、諦めてはいない。ただ、それと平行して「安定して稼げる仕事のスキル」をもうひとつ見つけられないかと思索しているのだが、あまりに仕事っていろいろある上に、自分の適性との相性や、将来残っている、自動化されない職業というところまで考慮すると、かなり難しい。そしてその上、そういう仕事は、おそらくライバルが殺到すると思われる。人がやりたいと思う仕事は、だいたい似ているのだ。

なんといっても、私が向いてる仕事のほとんどは、「将来自動化されてしまう」リスクが高いものが多いのだ。今までやってたデータ入力や、比較的難易度の低い事務的軽作業など。実に、嘆かわしい。これまでのキャリアは生かせないだろう。


私は、AIにとって代わられるかどうかの基準は「マニュアル化、パターン化できるか否か」だと考えている。
一人一人対応を変えないといけない仕事や、やる人によって全員結果が異なるような仕事は、代替はされにくいと思う。なぜなら、ロボットはゼロからものを作り出すことは、現時点ではできないからだ。人間のように空気などを読み、臨機応変に対応するのは、少なくとも当面難しいだろう。

反対に、「やり方は決まってて、覚えればできる」というものは危ない。これはロボットは人間よりはるかに得意だから。
そんなわけで、私は、AIには期待とともに、それ以上に脅威に感じてる気持ちが強い。代替されないような人間になるしかないのだ。

そのためには、現時点では「芸術方面」などの創作系しか思い浮かばない。もともとそういう仕事をやりたかったし、うまくいけばなんの問題もないんだけどねぇ。こっちはすごく人気だからね。自信、なくしちゃうよ。

もう少し自分が組織内で器用に立ち回れる人間だったり、臨機応変な仕事が得意だったり、営業が得意だったりすれば、ごく普通のサラリーマンのように出世して生きていけるのだろう。でも、学生の頃から、それは向いてないと確信していた。

だから、何か専門的なことに特化したほうがいいのだろう。

タイトルにも書いたが、「職人気質」の人間というのは、人よりずば抜けた何かがないと、とても生きづらいのだと思う。これは、私だけではない。
多くの普通の仕事は、何かに特化しているよりは、幅広く業務をこなせる「マルチタスク型」人間を優遇する。少なくとも、専門職でもない会社員は、そういうものだ。

私は、職人気質なわりに、そんなに特化した天才的な才能もないと感じてる。せめて、長所も「やらない人よりは優れている」程度と思っている。同じ「絵が得意な人」が10人いたら、その中で一番になることすらできる自信がない。まあ、努力も足りないと言えば足りないんだろうけどね。


人より優れているのは絵と文章力?ぐらいしか思い浮かばないけど、こっちを仕事にして生きるのは本当に難しいことなのだ。だから、途方にくれてしまう。



自分の能力や適性に不満も持ってしまう今日この頃だが、それでも、生きていくしかない。本当にポジティブにはなれないけど、せいぜい、「今よりはひどくならない」ためにも、できることをやるしかない。

とりあえず、副業として始めた仕事の効率をより上げるのが最優先。これに追われてると、他に勉強したいことあっても、できないからね。

メンタルの弱さと「罪悪感」

私は昔からずっと「打たれ弱さ」という自身の弱点に悩み続けてきた。今もこれは、ほとんど変わらない。何度強くなりたいと願ったかわからないし、メンタルの弱さに対しては、罪悪感すら抱いてしまっている。

とりわけ、「キツイ言葉に対する免疫力」というのがまるでない。その中でも、「人格や能力を否定する言動」というのが最も辛い。たとえば「あなたはだめな人間だね」とか「そんな簡単なこともできないの」とかいうたぐいの言葉です。言われたら涙をこらえることができない。きっと、自分に思い当たるところがあるからだろう。

 

なにせ、メンタルの弱さというのは、目に見える障害や、虚弱体質のように、他者から理解を得られるものではない。おどろくほど、理解されないのだ。たいていは「その人の努力不足、甘え」として片づけられてしまう。だから、メンタルの弱い当事者は、二重にも苦しみを抱えることとなる。私がメンタルの弱さに対して罪悪感を抱いてしまうのはここら辺が理由で、他人から「甘えている」「他の人が耐えてるのに、どうしてあなたはできないの!」と責められてきたのだった。責める相手は、間違いなく私に怒りを抱いている。

 

私自身も、なぜ自分がこんなにも打たれ弱いのか、原因がよくわからないのだ。昔からずっと疑ってきた発達障害のせいなのか、最近知名度があがってきたHSPと呼ばれる性質のためなのか、甘やかされて育ち、苦労を知らないからなのか。あるいは複数の原因があるのか。いくら考えてもよくわからない。

 

私が生きづらさを常に抱える原因として最も大きいのは、やはりこの打たれ弱さなのだと感じている。社会との不和や人との感性の違いによるものも大きいけど、根本的な原因は、間違いなくここにある。メンタルさえ強ければ、うまくいかないことがあってもそこまでめげずに乗り越えることだってできるし、みんなと違うことに不安を感じなくても済むだろう。

特にこのストレス社会と言われる現代で、打たれ弱さというのは致命的な弱点といわざるをえない。もう人並みに強くなるのは不可能かもしれないが、今よりはやはり強くなりたいと日々願っている。それが私の人生に与えられた試練なのだとも解釈している。

 

心のどこかに「楽に生きたい」という気持ちがあるせいかな?

「嫌われる勇気」という著書が大ブレイクした心理学者のアドラーが提唱する「アドラー心理学」において、「行動を起こすのは原因があるからでなく、目的があるからだ」という考え方があります。

たとえば友達が待ち合わせに遅刻し、あなたは不快に感じたため、その友達を叱ったとしましょう。この時の怒ったという行為にアドラーの考え方を当てはめると、「友達が遅刻したことに腹がたったから怒ったのではなく、怒ることによって友達をコントロールしたいから怒った」という解釈が適用されます。

 

これと同様に、私の「打たれ弱さ」は「困難から逃げるための防衛反応」なのかもしれないと、ふと考えました。傷つきたくない、楽に生きたい。だからちょっとしたことで傷つき、それ以上の困難は避けようとする。そういうことなのかな。

確かに、楽したいっていう気持ち、否定するとウソになります。楽に成功したい、困難や苦痛をなるべく伴わずに生きていきたいっていう気持ちが、心のどっかにある。だからこそ、ちょっとうまくいかないことを感じると、すぐに腹が立ってしまうところがあるのだと思います。

でも、これって、目的が先なのか、原因が先なのか、やっぱりよくわからない!楽したいから傷つくのを避けているのか、傷つきやすいから楽したいと考えるのか。

 

それでも私は成長したい

 

打たれ弱さには、結局はいろいろな要因があるのでしょう。考えても結論は出ない。

生まれつきのストレスに対する感受性も、みんな同じぐらいなわけではないのだ。HSPと呼ばれる人たちは、通常の人よりずっとストレスを感じやすい性質があり、これは生まれつきの性質であることが判明している。この人たちには上記のアドラー心理学の「目的論」は全く当てはまらない。また、発達障害の人も生まれつき感受性が高いと言われているため、違うだろう。

で、いくら考えても、私が上記にあてはまるかどうかなんて自分ではわからないし。

 

私には、楽したいという気持ちがある一方で、「やっぱり成長して、大きな幸せを手に入れたい」という気持ちが強いのも確かです。で、経験上それは楽することを続けていると決して手には入らないことがよくわかっています。

 

「幸せ」と「苦労」は、表裏一体だと感じています。真逆な状態でありますが、大きな困難を味わったからこそ、幸せを感じる力も高まるのではないかと。たとえば、必死に努力してやっとその成果が実ったときの感動って、格別ですよね?手に入れるのが大変だったからこそ、そのぶん喜びも倍増なのです。

そんなに苦労せずに同じ成果が手に入っても、その喜びはそこまで大きなものとはならないでしょう。

 

私が格別な喜びを味わったのは、大学受験に合格した時です。あのときは約2年間、遊ぶ時間をも犠牲にして、ひたすら勉強した。勉強している期間は辛かったけど、合格通知を手にした時の喜びといったら、涙が出るほどのものでした。

 

で、あれから10年以上たったが、あれ以来そのような喜びを手にできていません。これは、私が今までなるべく楽な方向に流されてきたからなのでしょう。

だから、大きな喜びを手に入れたいんだったら、そこに伴う苦痛を避けてはならないとつくづく実感です。で、その苦痛を乗り越えたときに、人間として大きく成長しているはずですからね。

でも、どこかに苦難を避けたいという邪悪な気持ち、幸せから私を遠ざける気持ちがある。だから、常に葛藤し続けている。その葛藤の度合いと言ったら、人生とはこういうものなのか、と思わずにはいられないほどのレベルだ。

 

強くなりたいなら、やっぱり逃げてはならない

成長したいのなら、葛藤に悩みながらも、それでも目の前のこと、自分の信じることをやり続けていくしかない。価値観が違う人や、私の行動に否定的な他人の言動に悩まされたり、なかなかうまくいかなかったりして自分がぐらついたり、とてつもなくみじめで孤独な気持ちになることもある。それでも、これは人生において避けられない行程なのだと自分なりに解釈をしながら、今日も生きている。

 

人生の答えなんていうのは明確にただひとつにきまっているわけではない。だから、自分で試行錯誤し、起きた結果に対してそれなりの解釈をし、最終的になにかしらにたどりつくものなんだろうな。あまりに難しい答えを探し求め、私たちは、長い旅を続けていく。

 

人生は、長い旅であり、迷路である。

 

 

 

 

 

 

流されて、生きてきてしまった。

ただただ川の流れに身を任せ 流されてきた 私は魚

気がついたら 陸の上に 打ち上げられてしまったようだ

このままでは死んでしまう 

力がどんどん弱っていく うまく動けないよ

 

今 水の中に 私を戻してくれた人がいた

命の恩人だ

私は 本当の目的地に たどり着くため

今 ここから 泳ぎだそう

今度は 自力で泳ぐんだよ

他の魚たちとともに 流されてはいけないよ

生きやすくなるためには、やはり「自分軸」の確立が重要ではないか

こんばんは。相変らず鬱々とした世の中ですね。例の感染症も、ますます猛威をまし、みなさん、疲れ切っていることと思います。でも、人生、やっぱり少しでも楽しみたいですよね?

さて、今回は、わたしたちのような生きづらい人間が少しでも生きやすくなるために、「自分軸」が必要だということについて書いていきたいと思います。長くなりますが、どうぞ最後までおつきあいくださいませ。

 

そもそも「生きづらい人間」と「そうでない人間」の差は何か?

 

 

理由はいろいろありますが、一つは、「生きやすい人間はこの世界のルールに特段疑問を持たずすんなりと順応する」というのが挙げられると思います。この世界には暗黙のルールはいくつも存在していて、中には理不尽なものも多いでしょう。でも、うまく生きられる人間って、それを見事に受け入れて、その世界でうまくやっていっちゃうんだよね。これは、私たち生きづらい人間は持ち合わせていない点です。思い当たるところ、あるでしょう?社会でうまくやっていけないと、「どうしてこんなルールがあるんだ」って気持ちに、なりませんか?少なくとも、私はしょっちゅうこんな気持ちになります。

 生きづらい人間は「この世のルールにうまく適合できない人」 

 

世の中のルールは、確かにいつでも存在しています。そして、それはその時の多数派に沿う形で存在する。ルールに沿って生きられる人間というのは、確かに社会から評価される。

たとえば現代日本社会だったら「協調性があっておもいやりがあってコミュニケーション能力が高く、なおかつ積極的な人間」みたいなのが理想とされている。しかし、これらが得意ではない人間だって当然ながらいるはずだ。そういう人たちは思ったように評価されず、自分はだめかもしれない、なんて気持ちになったりするだろう。

 

社会に適合できないなら、自分のルールを新たに作ろう

 

私は周りと無理矢理合わせて自分を押し殺してきた結果、生きている意味がわからなくなり、精神を病みかけてしまった時期があります。そんな時に、「常識にとらわれない生き方」をしている人の存在を、リアルやネット上で知ることになり、ようやく「自分を生きよう」と考え方を変えるようになりました。それからは、生きづらさから徐々に解放されていきました。

真の幸せとは、自分の思ったような生き方をすることで、世間の価値観に沿って生きることではないのではないでしょうか。もちろん、世間一般のルールに特に疑問を覚えることなく従い、それが幸せだと心からなんの疑いもなく信じられているなら、それでいいと思います。

でも、生きづらい人の多くって、たぶんなんらかの疑問があるんじゃないでしょうか。どこかで世間との不和を感じてるはずです。そして、ルールに適応できないけど、周りの目は異様に気にしてしまう方も多いのではないでしょうか。だから、なんとか自分を変えてでも適応しようとする。そこから「生きづらさ」が増していく。

 

「自分軸」を確立するためには

しんどいなら、一度自分の中にあった「常識」とされているものを、いったん手放してみましょう。辛い人は、自分の中に「ああしなければならない」っていうのをたくさんかかえている人が多いんではないでしょうか。今、紙にそれを思いつくまま書き出し、それを見つめた上で

「果たして本当にこれは正しいのか?」

「これをやったら、本当に自分は幸せになれるのか?」

というのを、もう一度自分の心に聞いてみてはどうでしょうか。案外、そんなに重要じゃなかったことが、あるかもしれません。そして、その次に「自分は本当はどうしたいか、どうなりたいのか」というのも書きだしてみましょう。この時重要なのが、「誰かが言ってたから」ではなく、「自分の本心に従って」書きだしてみることです。

 

とは言ってもねぇ・・・「自分軸」確立するの、正直めちゃ難しい。国民性も邪魔している可能性が高い

 

こんなこと書いといてなんですが、私自身もまだこの「自分軸」を確立する作業は、途中なわけでございます。まだ、完全にぶれないようにはなっていない。この程度の人生経験では、不可能なのかも知れない。もうぶれないと思っていたのに、人生あまくないね。

私自身も、人から「あなた違ってるよ」って指摘されたり、自分と正反対の価値観の人間に出会ったり、いわゆる世間の多数派の生き方をして幸せになっている人を見たりすると、正直、「ぐらつきます」。実際、世間一般のルールの上で幸せになっている人って、私から見るととても多いように感じます。逆に、そのルールからはずれて生きている人には、不安を抱えていたりする人が多いんじゃないか、とも見受けられるんですよね。これは、日本の「みんな一緒がいい」文化に関係するところも多いかもしれないけどね。

どうしても我々日本人は、多数派に流されていってしまう傾向が強い。で、協調性があることが好まれるから、自分を殺してでも相手に迎合してしまいがち。ある程度の協調性は大事ですが、あまりに自分を抑える生き方をずっとつづけていると、自分が本当はどうしたいのか、って見失いがちになるかもしれません。で、そういう人が、いきなり「自分軸」を確立して、自分らしく生きるって言うのは、正直、ハードル高いといわざるをえないんでしょうね。

ずっとずっと、周りを気にする生き方をつづけちゃったからね。自分の本心をどこかにそっちのけちゃった。辛かったでしょう。もう、自由になりたいね。自分を、大切にしたいね。

 

「自分の生きる意味」を作ろう

生きづらさから解放されるためには、まず「自分が唯一無二の存在」であることを再認識し、世間の提示する常識にとらわれない生き方を模索しましょう。そして、誰かと同じになろうとしない。誰かを目指さなくていい。あなたは、唯一無二なんだから。

 

まず、やりたいこと、もしくは、できそうなこと、これをやってみましょう。人から褒められなくてもいい。続けられそうなら、続けてみましょう。少しずつ何かができた体験が積み重なることで、自信がついてくると思います。どんな小さなことでも大丈夫です。

苦しい経験や自分のハンデすら、何かの役に立つと信じてみよう

たとえどんなに辛い思いをしても、のちにそれが自分の人生において重要だった、と感じられるようになることもあります。

私自身も、中学生時代に挫折した苦い経験がありますが、今思うと、その経験がなかったら、自分は「できる人間」だと過信したまま年を取っていくことになっていたかもしれません。だったら、早いうちに一度挫折しておいたほうがよかったのかなと、今では思えるようになっています。[実は小学生までかなりの自信家でした。これは黒歴史です。]

そして、今私は、生きづらさを抱えて生きてきた経験を、何らかの形で役に立てようと考えています。そんな人間だからこそ、同じような思いをしてきた人間の気持ちをわかるし、サポートできるはずだ、と信じて。で、今は、正直これを「自分の生きる意味」と信じて生きている感じなんですよね。今まで経験してきたことが、今後なんらかの形で大きな意味を与えてくれるんじゃないか、と信じて。正解なんかまだまだわからないですが、前に進むためには、とかく「信じる」ことが大事なのです。

 

今こうしてブログを書いていますが、このブログを読んだ人が、少しでも心が救われれば、望外の喜びです。まだまだ稚拙なので、もっと充実した内容にしていきたいと考えている次第ですが。

 

最後にまとめますが、「生きづらさ」は、「自分軸」が確立しない限りは、たぶん解消しないんじゃないかな、と確信しております。自分の価値観をしっかりしておかないと、結局他人の価値観に沿って生きなければならなくなります。そうすると、常に他人の評価を気にし続けなければならない。私も未だにそんなところがあり、これは、辛いことです。

逆に言うと、自分軸、言い換えれば「自分のものさし」がしっかりしていれば、それだけを基準に物事を判断できるようになるから、もう他人の価値観には振りまわされないで済むわけです。今まで他人から評価されなくて悔しかった人間が、自分軸に沿って生きられるようになったら、格段に生きやすくなると思いませんか?

私もそんな自分になれることを目指して毎日生きております。根本的な生きづらさはまだまだ解消できないけど、今、よき理解者もいて、やりたいことがあるから、それらを信じ続けて少しでも楽しく生きていきます。

 

みなさんも、「自分軸」是非構築してみて下さい。生きやすくなるはずです。

 

 

 

 

水の心

わたしのこころは 水である

いつでも定まることなく つねにゆらゆら揺れ動く

動きが止まってもまた ちょっと風ふけばすぐ動く

だからなんだか 疲れちゃう

疲れ過ぎると 水は涙となって

からだのそとに 流れるの

せめて水なら いつまでも清らかに

汚されぬよう 守りたいのよ