生きる意味

今回も又、毎度のように重い話になってしまうことをご了承いただきたい。

 

私は最近「いかに生きるべきか」「どう苦しみを乗り越えるか」など哲学的な内容の本に興味を示すことが多い。自分が今後どう生きていこうか、人生設計をしっかりしないといけないタイミングだから、どうしても心を動かされてしまうのだと思う。

その中で、「人間が苦しいのは、自分の意思でもないのにこの世に産み落とされながらも、生きていく上で責任を背負わされるからだ」という考えを目にしました。

確かにそうなんですね。生まれてくるのは、まったく自分の意思ではない。それに、自分の持っている能力も、国籍も、家庭も、性格も、すべて選ぶことは出来ない。一方的に与えられたものばかりなのだ。で、みな、まったく違う時点からスタートする。

それなのに、生きていくために同じ競争を強いられる。それぞれスタートが違う者同士が、巨大なフィールドの上で競争を余儀なくされる。貧しい家庭の者も、裕福な者も、能力に恵まれた者も、そうで無いものも、容姿がみにくい者も、整った者も。だから、どうしても「理不尽」なことだらけになってしまうのだ。努力の差にかかわらず、勝敗が決してしまうことも多々ある。

で、その競争で負けた者は、自分の努力が原因だと周りから批難されたり、酷いと「だめな人生、負け犬」と言われることだってある。悪事を働いたわけでもなく、必死に生きてきたのに負け犬呼ばわりなんかされたらたまらない。

 

人生は努力だけで決まるものではない。上記にあげた、自分では選べない要因というのもかなり関わってくることなのだ。もちろん、スタートがかなり過酷な地点でも、逆転できない訳ではないが、優れた条件を持った者よりも厳しい戦いになることは間違いないのだ。

自分で選んだものでもない条件を持って、人生を生き抜かなければならない。たとえそれがどんなに不利な条件であったとしても。戦わないと、いけないんだ。

そこにまず、人生の苦しさはあるのかもしれない。

人生は理不尽なことばかり

私自身も学生の頃なんかは「努力すればかならず報われる」と割と純粋に信じていた方だった。自分も運があったのか、模擬試験では難しいと思っていた受験も無事合格できたり、努力が報われると感じる場面が少なからずあったからなのだろう。

ところが、30まで生きてくると、もはやまったくそうは思えなくなってきたのだ。自分自信、努力しても報われない経験をしたり、周りの報われないパターンを多々見てきたからだろう。次第に「世の中って理不尽なことばかりやなぁ」という思いは強くなり、揺るがないものとなった。

で、理不尽なことはどうしても許せない、という気持ちになることも多い。そのため、やりきれなくなることだってある。また、「もうどうしようもないんだ」と無気力になってしまうことも。

でも、上記の考え方を知ったら、なぜだか少しほっとした。「そっか、誰しも人生は選んだものじゃないから、理不尽になるのは仕方ないんだね」という気持ちになったのだった。それでも、あまりに理不尽なことは、胸が痛くなるんだけどね。

 

「何者かにならないといけない」という呪い

現代の日本では、6,7割ほどが「生きにくい」と感じている、という調査結果があった。私は最初、この生きづらさは日本人の「自己肯定感の低さ」がメインの原因じゃないか、と思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。

いろいろな記事などを読んでいくと「社会構造の急速な変容」というものも大きな原因となっているようだ。

ひとつは、一昔前、バブル崩壊までの「高度成長期」では、とかく労働における人力が必要で、仕事もその分たくさんあった。だから、言ってしまえばそれほど優秀でない人物でも、働けばなんとか社会を回すことができたのだ。つまり、そういう人でも、それなりに居場所があったっていうこと。

ところがバブル崩壊後、今から20年ほど前だろうか。不況により産業は縮小していき、当時の首相はアメリカ型の「成果主義」を取り入れるようになり、この結果、優秀ではない人材は会社にいづらくなってしまった。また、成果追求のためのコスト削減、徹底した合理主義などをどの会社も採用するようになり、余裕がすっかりなくなってしまった。「よりいいサービスを、より低価格で、最小限の人員で実現する」ことばかりを重視するようになってしまったから、その分従業員に負担がいくようになったのだ。

 

さらに、もう我が国民は、物資的には十分満たされてしまい、人はよりいいものでないと求めないようになり、サービス、商品に対する要求が年々上昇してしまってきている。

いわば「作りさえすれば売れる」という時代ではなくなり、価格競争、他者との差別化、という競争が厳しくなってしまったわけですね。いくらモノが満たされたといっても、国民が消費をしなければ世の中は回らない。だから、よりいいモノやサービスは、常に作り続けなければならない。

そういう世知辛い世の中だからか、労働市場では「一人でも多くの人間が優秀な人材である」ことを強要しているようになっていると、私は感じざるを得ない。そんな情勢を象徴する言葉が「生産性」だ。この生産性を持って、その人物そのものの価値を判断する風潮が、最近きわめて強いように感じてならない。極端にいうと、生産性の低い人間は不要だ、生きていてはいけない、という風にも感じられるのだ。相模原の事件のように、生産性の有無を理由とした残忍な殺人事件まで起きているぐらいだ。この犯人も、世間のそういった風潮に追い詰められたいた一人なのではないだろうか。

 

世の中には「バリバリ働きたい!」という人間ばかりではない。むしろ「生きるだけのお金が稼げればいい」と考えている人間も少なからずいる。でも、今の世には「優秀になれ」という圧が強く、「一億総活躍社会」というぱっと見素晴しいフレーズにも、それは見て取れる。これは、私が思うに、「活躍したい人は活躍できる」社会ではなく、「活躍したくない人間も活躍しないといけない」という意味なのだと解釈している。

なぜなら、「キャリアアップ」だの「自分だけのスキルを身につけよう」などの言葉があらゆるところで見受けられるからだ。私自身もキャリアアドバイザーに言われているし、なんだか、それを余儀なくされている感が否めない。「もっと役にたつ人間にならないといけないんだよ」というメッセージかと。なんとなく働いていてはいけないのかと。

私自身には、実際「キャリア」と呼べるようなものがまったくない。正社員ですらなく、専門職をやっていたわけでもなく、教育や管理職の経験も無く、また国家資格のようなものもない。単純な事務作業が、割と正確にそれなりのスピードでこなせるだけだ。はっきりいって、転職市場ではかなり価値が低い方であると自負している。いわゆる「生産性」の低い部類だね。

 

そういう人は、もうこの世に居場所はないんじゃなかろうか。世論を聞いていると、いつになくそういう気持ちになり、私は虚無感を覚える。私自身は、大したスキルがなくてもそれなりの生活が出来る世の中を期待している。だって、人間には向き不向きがあるからね。でも、今の世の中は、そうじゃない。今後はさらに厳しくなるだろう。

 

私には今のところ、はっきりした「自分の居場所」が見つけられていない。何をやっても、しっくりこないのだ。特に仕事面で。また、最適と思える伴侶も見つかっておらず、守るべき物も特にない。自分の役割が、わからないのだ。

で、居場所が見つけられないと、「なんのために生きているんだろう」っていう気持ちになってくる。


「何者かにならないと、この世に居場所がなくなる」そんな気持ちであり、日々、心が休まらない。何者か、っていうのが特に「仕事におけるもの」だと感じてるから、なおさら辛い。これが趣味やボランティア方面でもいいのなら、ここまで息苦しくはないのに。

 

私は、それなりの名を残しているアーティストや、自分の仕事にやりがいを持っている人間に、激しい憧憬を抱いている。もちろん、彼らが「やりたいこと」で生活しているからというもの大きいが、それ以上に彼らが「この世での居場所があり、それにぴったり当てはまっている」という風に感じられて、そこがうらやましい点なのではないかと思っている。

幼い頃からある職業になることを夢見ていて、実際その職業についてもあますことなく素質を発揮し、仕事に満足している。特に成功した芸能人などはまさに「その仕事をやるために生まれてきた」といえるほど才能に恵まれたりしている。こういうのが、天才というやつなんだろうな、と思う。

自分は、そうなりたかったのに、なれていない。そこまで優れた何かも、どうも見つけられない。ただなんとなく、とりあえずできる仕事をやりながら、生きている。生きる意味は、今もわからない。

やりたいことはあるけど、うまくいくかわからず、自信が無い。もし失敗したら、もう後がないっていう状況にあるから、なかなか踏み出せない。

 

自己肯定感の低さは致命的に人生に悪影響を及ぼす

自分の生きづらさの原因は、端的に言うと「社会との不適合、ずれ」なのだと思う。決して不幸な環境に生まれ育った訳ではない。むしろ、恵まれた点が多いと思う。それなのに、なんだか生きづらい、と昔から感じていた。

ただ、たったひとつ「自分自身の性質」、これだけが原因。自分の持っている性格と能力が、現代社会のニーズとうまく合致していないのが理由なのだ。

 

でも、冒頭でも述べたとおり、自分に与えられたものは、もう変更できないのだ。それを生かして生きるしかない。たとえ、狭き門であっても、最大限力を発揮できる分野があるなら、それに人生をかけてもいいとすら、私は思っている。それがなんなのかが、まだわからないんだけどね。

 

私自身、周りから心配されたり、人間関係でつまずいたりで、自己肯定感がほとんどない。「条件付き」でないと、自分を認めてあげられないんだ。

自己肯定感の低い人間は、やはり、自分の存在意義をわからない。そういうのを、無理にでも見つけるしかないんだ。人様から認められる自分にならないといけないんだ。

私はやっぱり、誰かから必要とされたい。特に仕事方面で。

 

「仕事=生きる意味」になってしまうと、とてもしんどい。世の中はもう変わらないから、自分だけでも、変わりたい。